問題提起
兄弟の一人から遺産分割協議書が届き、「実印を押して印鑑証明書と一緒に返送して」と頼まれた。協議書は一度押すと簡単にはやり直せない。押す前に確かめることを、法律の文言・要件・手続の流れ・相談の目安の順に整理する。
弁護士に相談する前に知っておきたい法律の要点を、分野ごとにスレッド形式でまとめています。
兄弟の一人から遺産分割協議書が届き、「実印を押して印鑑証明書と一緒に返送して」と頼まれた。協議書は一度押すと簡単にはやり直せない。押す前に確かめることを、法律の文言・要件・手続の流れ・相談の目安の順に整理する。
遺産の分け方は、相続人全員の話し合い(協議)で決められる。
共同相続人は、……いつでも、その協議で、遺産の全部又は一部の分割をすることができる。民法907条1項(一部省略)(e-Gov法令検索で原文確認)
決まった分け方は、亡くなった時点にさかのぼって効力を持つ。
遺産の分割は、相続開始の時にさかのぼってその効力を生ずる。ただし、第三者の権利を害することはできない。民法909条(e-Gov法令検索で原文確認)
協議が有効になるための主な要件は次のとおり。
①相続人全員が参加して合意すること。一人でも欠けた協議は有効にならないと一般に考えられている。戸籍で相続人を確定してから進める。
②各相続人に判断する力があること。意思表示の時に意思能力がなかった場合、その法律行為は無効になる(民法3条の2)。認知症の相続人がいる場合は成年後見の利用を検討する。
③未成年の相続人がいる場合の代理。親と子がともに相続人のときは利益が相反するため、家庭裁判所に特別代理人の選任を請求する必要がある(民法826条1項)。
④分ける遺産の範囲が分かっていること。預貯金も遺産分割の対象になる(最高裁平成28年12月19日大法廷決定)。
なお、協議は口頭の合意でも成立し、協議書に法律で決まった様式はない。ただ、相続登記や預貯金の解約の場面では、相続人全員の署名と実印の押印、印鑑証明書の添付を求められるのが通常であり、実務上はこの形で作る。
実務の視点要件ではなくても、書面に残す実益は大きい。後で「そんな合意はしていない」と争われたときの最も確かな証拠になり、誰が何を取得したかが明確になるので、紛争の予防にもなる。各自が1通ずつ保管する。
①戸籍を集めて相続人を確定する → ②不動産・預貯金・株式・借金を調べて財産目録を作る → ③分け方を話し合う → ④協議書を作り、全員が署名し実印を押す → ⑤協議書と印鑑証明書を使って、相続登記や預貯金の解約をする。
話し合いがまとまらないときは、家庭裁判所に分割を請求できる(民法907条2項)。
家庭裁判所では、通常まず調停で話し合い、まとまらなければ審判で分け方が決まる。分け方の基準は民法906条が定めている。
①財産の一覧が付いているか。知っている財産が抜けていないかを照らし合わせる。
②「その他一切の財産は○○が取得する」の一文。後で見つかった財産もその人のものになる。「後日判明した財産は改めて協議する」と書く方法もある。
③借金の扱い。借金は、亡くなった時点で法定相続分に応じて当然に分かれ、各相続人に引き継がれる(最高裁昭和34年6月19日判決)。協議書で「借金は長男が払う」と決めても相続人どうしの約束にとどまり、債権者の承諾(免責的債務引受・民法472条)がなければ債権者には主張できない。借金の方が多そうなら、協議より先に相続放棄を検討する。
④法定相続分と違う理由。全員が納得すれば違う分け方もできる。
⑤協議前の払戻し。各相続人は預貯金の一定額を単独で払い戻せ、その分は遺産の一部を取得したものとみなされる(民法909条の2)。協議書の金額がこれを差し引いているかを見る。勝手な引出しも、引き出した本人の同意なしに遺産に戻して計算できる(民法906条の2)。
⑥不動産の表示。所在・地番・家屋番号が登記簿どおりかを確かめる。
⑦空欄や差し替えのおそれ。実務の視点空欄のある書面には押さず、複数頁なら契印を確かめる。押した協議書の写しは手元に残す。
次の2点は、判例で決まっている部分と、事情によって結論が分かれる部分がある。分かれる部分は一般論だけで判断せず、弁護士に相談してほしい。
①押印と相続放棄。協議に加わって押印することは、財産を受け取らない内容でも、原則として相続財産の処分に当たり、単純承認になると考えられている(民法921条1号)。議論があるのは借金を知らずに協議した場合で、協議の錯誤などを理由に後の相続放棄を認める余地を示した高裁の決定がある一方、認めない判断もあり、結論は分かれている。
②押した協議のやり直し。全員が合意すればやり直せる(最高裁平成2年9月27日判決)。一方、ある相続人が協議で約束した支払いや親の世話を守らなくても、それを理由に協議を解除することはできない(最高裁平成元年2月9日判決)。この判例には学説からの批判もある。勘違いやだましを理由とする取消しは要件を満たせば可能だが、満たすかどうかは事情で分かれる。
次のような場合は、押す前に弁護士事務所に相談した方がよい。
・自分の取り分が法定相続分より明らかに少なく、理由の説明がない
・亡くなる前後に大きな出金があり、使い込みが疑われる
・借金があるか分からない、または借金の方が多そう
・認知症の相続人や未成年の相続人がいる
・遺言があり、内容に納得できない
・相続人どうしが対立していて、直接の話し合いが難しい
弁護士に依頼すると、戸籍や財産の調査、協議書の内容の点検、他の相続人との交渉、調停・審判の手続を任せられる。
相談は押印の前が原則。押した後に一人で撤回することは基本的にできない。あわせて次の期限に注意する。
・相続放棄を考えるなら、相続の開始を知った時から3か月以内(民法915条1項)。財産を処分すると単純承認とみなされる(民法921条1号)。協議で取り分をゼロにしても、家庭裁判所での相続放棄にはならない(民法938条)。
・遺留分の請求は、相続の開始と侵害を知った時から1年(民法1048条)。
・相続登記は、取得を知った日から3年以内(不動産登記法76条の2第1項)。
・亡くなってから10年を過ぎると、原則として特別受益・寄与分を主張できなくなる(民法904条の3)。
押す前に、相続人・財産の一覧・借金・取り分の理由・払戻し・不動産の表示・空欄の7点を確かめる。分からない点が一つでもあれば、押す前に相談するのが安全である。